▶ 曲目解説

東遊(あずまあそび)

東遊は前奏曲のような短い曲も数えると十七の曲から成り、舞は神前の長方形または正方形の東遊専用の舞殿で舞われ、全部で四十分余りかかります。
紫式部は『源氏物語』の「若菜下」と「匂宮」の二ヶ所で「東遊」を登場させています。
「若菜下」では、東遊を「高麗・唐土の楽よりも、東遊の、耳慣れたるは、なつかしく、おもしろく」とあり、また「笛の音も、拍子も、なまめかしく、すごく、おもしろく」と続けて東遊のすばらしさを書いています。
これは、高麗楽や唐楽など外来の音楽と異なり日本古来の歌舞なので、舞ぶりも音楽の構成も馴染みやすかったことの現われと思われます。

越殿楽(えてんらく)

古くは唐の宴楽で用いられていたとされます。中学校の音楽鑑賞の教材としてこの「越殿楽」(「越天楽」とも書く)が取り上げられています。三部形式のよく整った曲で、雅楽の曲の中では一番知られている曲でもあります。今でこそ演奏会で多く聴くことのできる楽曲ですが、平安時代ごろは演奏される機会は限定的で、法要や講式などの仏教行事での演奏記録が多く残されています。
「越殿楽」は平調という調子(洋楽で言うところの主音の宮音がミの音)、黄鐘調(宮音がラの音)、盤渉調(宮音がシの音)の曲があります。

越殿楽残楽三返(えてんらくのこりがくさんべん)

「越殿楽残楽三返」とは、越殿楽という曲を残楽の方法で三回繰り返す、という意味です。
残楽三返という演奏法は、管絃の演奏を楽しむために生み出された特殊な演奏法で、平安時代に宮中の御遊びで行われていました。特に筝の演奏技巧を披露し賞するためであり、篳篥はあくまでも筝の演奏を助けるためのものであると、江戸時代に書かれた『楽家録』に記されています。
演奏方法は、まず笛の音頭が一人で吹き始め、普通の管絃の演奏と同じ手順で、打物、笙、篳篥、笛、琵琶、筝が加わり、越殿楽の曲の一返目を演奏します。一返目が終わると打楽器と笛、篳篥、笙の助管、及び琵琶の助絃は演奏を止めます。
二返目は笛、篳篥、笙、琵琶の音頭の一人ずつと筝だけが残り演奏を続けます。この二返目の途中で笙が止めます。
三返目の始めのほうで笛が止めます。ここから篳篥と筝と琵琶の演奏となり、筝は普段の合奏ではしない輪説という変化に富んだ手を奏します。
篳篥は筝の演奏の合間を縫うようにメロディーを断続的に演奏します。やがて篳篥も琵琶も止めて筝だけの演奏となり、最後は主筝一人が残り終わります。

延喜楽(えんぎらく)

延喜楽

右方の舞楽。高麗壱越調。古来、演奏会や祭祀・法会などでの演奏記録が多く、現在に至るまで長く親しまれている舞楽です。
『楽家録(がっかろく)』によれば延喜年間(九〇一―九二三)の初期、藤原忠房(一説には和尓部逆麿)によって楽が、敦実親王によって舞が作られ、「延喜」の年号から曲名が付けられたとされます 。
演奏は高麗笛と篳篥各一管による《意調子(いちょうし)》の後、《延喜楽》当曲に続きます。
舞人は鳥甲(とりかぶと)をかぶり、襲装束(かさねしょうぞく)(一般的な舞楽装束)を着けます。前半部分では、ほぼ同じ動きの舞が右向き、左向きでそれぞれ一くさりずつ舞われます。後半部分では速度が上がり、前半部分に似た動きの舞が変化を伴いながら舞われます。
 中曲 四拍子 拍子十一

皇麞急(おうじょうのきゅう)

この曲は、中国の唐の時代の中宗(六八四~七〇九年)のとき、将軍の王孝傑が黄麞谷で契丹を打って戦死したので、中宗がその霊をとむらって作ったとも伝えられています。
唐から伝えた頃は、「遊声、序、破、急」という組曲の構成で演奏され、舞もありました。『源氏物語』の中では、光源氏の四十の賀(「若菜上」)や朱雀院の五十の賀(「若菜下」)などで舞われたことが書かれており、平安時代から祝賀の場で演奏されることが多かったようです。しかし「遊声」と「序」は平安時代末期に失われ、後には舞も失われてしまいました。
現在は「破」と「急」のみが伝えられていますが、雅楽の曲の中で大曲となっています。また曲名の「おうじょう」が「往生」とも書かれ、『平家物語』『吾妻鏡』では、捕虜となって鎌倉に護送された平重衡が「往生の急」とかけて皇急を演奏したという逸話が載せられています。
早四拍子 拍子二十 半帖以下加 の曲

海青楽(かいせいらく)

承和年間(八三四―八四八)、笛師・大戸清上(おおとのきよかみ)と篳篥師・尿麿(はりまろ)(姓不明)によって作曲されたと伝わります 。この曲は作られてからさほど間もないうちにさまざまなアレンジが試みられていたようで、平安中後期の楽譜においてそれぞれ微妙な変化が認められます。そのためか、現在でも琵琶や笙にその変化の痕跡が残り、呂(長調のようなもの)と律(短調のようなもの)が混ざった不思議な楽曲になっています。
清上と尿麿は神泉苑への行幸の際、仁明(にんみょう)天皇より、舟で小嶋を一周する間にこの曲を作るよう勅があったというエピソードがあります。
中曲 早八拍子 拍子十 末二拍子加

嘉辰(かしん)

嘉辰は朗詠です。朗詠は、漢詩に旋律を付けて歌われてきた歌曲の総称で、平安時代から演奏されるようになり『源氏物語』『枕草子』などにも演奏の場面が数多く登場しているものです。
嘉辰の句は、「嘉辰令月(かしんれいげつ) 歓無極(かんむきょく) 万歳千秋(ばんぜいせんしゅう) 楽未央(らくびよう)」で、意味は「良きときにあって よろこびはきわまりない 千年万年祝っても その楽しみは尽きることがない」というお祝いの句です。平安時代、藤原公任(ふじわらのきんとう)の撰になる『和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)』の祝の項に載せられており、今から千年以上前、九六九年に太政大臣藤原実頼の邸宅で歌われたという記録が残されています。
朗詠は、一句、二句、三句とあり、嘉辰の場合は、まず一句の句頭(独唱者)が「令月」を独唱し「歓無極 万歳千秋 楽未央」を全員で斉唱し、続いて二句の句頭が「嘉辰令月」を独唱し「歓無極 万歳千秋 楽未央」を全員で斉唱します。さらに三句の句頭が「歓無極」を独唱し「万歳千秋 楽未央」を斉唱しこの漢詩を三回繰り返し歌うのを正式としています。楽器は笙、篳篥、龍笛がそれぞれ一管で伴奏します。

賀殿(かてん)

賀殿は、『源氏物語』が書かれる二百年ほど前の仁明天皇(八三三~八四七)の時代に、藤原貞敏(八○七~八六七)が唐から持ち帰った琵琶の譜面から、平安時代の日本で和邇部太田麿(わにべのおおたまろ)が笛の譜を作り、林真倉(直倉)が舞を作ったとされている舞です。
「賀殿」は、破と急の組曲になっていて、舞人は独特の甲(かぶと)をかぶり、右肩を脱いだ襲装束(かさねしょうぞく)を着て舞います。
まず壱越調の調子が奏されます。笙(三句)、篳篥(一句)、笛(音取)、鞨皷の順に音が重なりながら奏されます。
壱越調の調子に続いて、迦陵頻急(かりょうびんのきゅう)を管絃の曲のようにゆっくりと演奏している間に舞人が登壇します。四人の舞人が登壇し舞座に着くと三管音頭は止手を奏します。続いて賀殿破が奏でられ舞が始まります。延八拍子、拍子十の曲で始めはゆっくりと次第にテンポが上っていきます。破の曲が終わると続いて賀殿急が奏されます。急の舞は、舞の手が早く、見ていても楽しい舞です。急の舞が終わると舞人が降壇するのに再び賀殿急を奏します。同じ曲を重ねて吹きますので重吹(しげぶき)と言われます。

迦陵頻急(かりょうびんのきゅう)

林邑八楽の一つで、もとは沙陀調の曲でした。
この迦陵頻はインドで迦陵頻伽という霊鳥が、釈迦が説法をする道場である、祇園精舎の供養の日に、飛んできて舞ったありさまを妙音天が舞にしたと言い伝えられています。我が国には天平八(七三六)年に来朝した婆羅門僧正が伝えたといいます。

甘州(かんしゅう)

唐楽、左方の四人舞。唐の玄宗の作といわれています。中国の甘粛省(かんしゆくしよう)に甘州という地名があり、そこの海には竹が多く生えていたのですが、根ごとに毒虫がいて切りだせない。そこでこの曲を奏して竹を切ると、毒虫にはその音色が金翅鳥(きんしちよう)の声に聞こえて人に害を与えなかったといわれています。また、玄宗が太后の楊貴妃と青城山に行った時に官女の衣が風になびいて仙女が舞っているように見えたので、これを舞にしたともいわれています。舞人は襲装束(かさねしようぞく)の両肩をぬいで舞います。途中、種まきという特殊な舞の手があります。
平調、延四拍子、拍子十四、末四拍子加の曲。

喜春楽(きしゅんらく)

この曲は、隋の煬帝(六○五~六一六)の頃に陳粛公が作ったとも、大安寺の僧、安操法師が作ったとも言われていますが、途絶えてしまいました。その後、貞観元(八五三)年に行教法師が再興し、京都の石清水八幡宮の遷宮の際に奏するようになったものが、現在の喜春楽と言われています。
舞人は、平安時代の近衛の武人の正装であった蛮絵装束(ばんえしょうぞく)を着て四人で舞います。この蛮絵装束は向かい合った獅子の刺繍が袍(ほう)の前、後ろ、袖に施されているのが特徴的です。頭には冠を被り緌(おいかけ)を付け、袍は金帯で結び、笏(しゃく)を挿します。一番上に着る袍の色は、左ですので檜皮色となります。
舞人は黄鐘調調子で登台し、向かい合わせに立ち、喜春楽の曲が始まると舞い出します。途中、舞人が跪き右肩の袖を脱ぎ立ち上がり、舞台を舞いながら廻ります。
曲が終わると重吹(しげぶき)といって、舞人の退出の音楽として再び喜楽春が奏され、舞人は入綾(後ろ向きに一列になり、一人ずつ下がる)という作法で舞台を下ります。
この曲は古楽となりますので、鞨鼓を片桴という右手に持った一本の桴だけで打つ奏法で奏します。

久米舞(くめまい)

日本に古くから伝えられ演奏されてきた歌や舞は、管絃や舞楽と区別にして「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」として伝承されています。
この国風歌舞の中には久米舞の他、東遊、御神楽、大歌・五節舞などがあります。これら国風歌舞は、一般に見る機会は全くないと言ってよいほどです。

久米舞は『古事記』『日本書紀』に書かれている大和平定の物語を舞にしたものです。
「久米舞」の名が始めて現れるのは天平勝宝(てんぴょうしょう宝)元(七四九)年のことで、続いて天平勝宝四(七五二)年四月、東大寺大仏開眼の時に大伴二十人、佐伯二十人によって久米舞が舞われています。その後百年余り久米舞の記録はなく、平安時代清和(せいわ)天皇の時、貞観(じょうがん)元(八五九)年十一月十九日に悠紀(ゆき)、主基(すき)の両方の帳を取り払って天皇が多くの臣下と共に饗宴を開いたときに久米舞が舞われ、その後、天皇の即位の大礼の豊明節会(とよあかりのせちえ)や宮中の儀式などにも奏されていました。室町中期の後土御門(ごつちみかど)天皇(在位一四六五~一五〇〇)の文正元(一四六六)年にも行われましたが、翌年応仁の乱が始まり久米舞は絶えてしまいました。
それから四百年余りの年月が経ち江戸時代一八一八(文政元)年仁孝(にんこう)天皇即位の大礼を機会に京都の楽人多、辻両家により復興されました。その後は、天皇即位の大礼の時に演奏されています。最近では一九九〇(平成二)年に今上天皇即位の大礼で演奏されました。

曲の構成

久米歌音取
龍笛と篳篥の合奏する前奏曲
参音声(まいりおんじょう)
舞人が舞台に上がり所定の位置につく間、独唱、斉唱を笏拍子、和琴、龍笛、篳篥が伴奏。
「宇陀の高城(たかぎ)に 鴫羂(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし くじら障る」
揚拍子(あげびょうし)
久米舞の舞。伴奏は参音声と同じ、この揚拍子のみ拍節的なリズムをもつ。
「前妻(こなみ)が魚(な)乞はさば立ちそばの実の 無けくを こきしひえね 後妻(うはなり)が魚乞はさば いちさかき実の 多けくを こきたひえね」
間奏
和琴のみの演奏で、舞人はいっせいに太刀を抜き振り下ろす所作がある。
伊摩波余(いまはよ)
独唱で、和琴、笏拍子のみ伴奏
阿 阿(あ あ)
歌い手の全員が唱和し、和琴、笏拍子のみ伴奏
退出音声(まかでおんじょう)
舞人が舞い終わり、舞台から退くときの歌曲、独唱と斉唱を和琴、笏拍子、篳篥、龍笛が伴奏。
「しやを 今だにも 吾子(あこ)よ 今だにも 吾子」

舞は四人で舞います。舞人は、冠に赤い鉢巻を巻いた末額(まっこう)の冠をかぶり、笏と太刀をつけ、赤色の袍を着て、足は飾靴(かざりぐつ)という半長靴のような革靴をはきます。
和琴の厳かな調べに合わせて、舞人が太刀を抜き優雅に舞う姿は、印象的です。

雞徳(けいとく)

慶徳とも書き、舞はありません。雞に五つの徳があり、それをたたえた曲であるとも、中国の漢のころその南方に雞頭国があって、その国を討ったときの曲ともいわれています。
早四拍子 拍子十 の曲

傾盃楽急(けいばいらくのきゅう)

唐楽、太食調の曲。昔は序・破・急が揃っていましたが、今は急だけが残っています。唐の玄宗(げんそう)皇帝(在位七一二~七五五)の千秋節(誕生日)に、馬百頭を飾り付けて、これを見ながら酒の盃を傾けたといわれています。唐の太宗(たいそう)皇帝(在位六二七~六四九)が長孫無忌に作らせたとも、太宗本人、または玄宗の作ともいわれています。舞があったようですが今はありません。
早四拍子、拍子十六、末四拍子加の曲。

還城楽(げんじょうらく)

この舞は蛇を見て歓び跳ねる振りがあるので、見蛇楽(けんじゃらく)という別名もあります。
この舞は左方と右方があります。
左方は、只拍子(ただびょうし)と呼ばれる、四分の二と四分の四拍子を交互に連続して奏するリズムで演奏されますが、右方では四分の二と四分の三が交互に連続して奏される夜多羅拍子(やたらびょうし)と呼ばれるリズムになります。夜多羅拍子は、これを初めて聞いた人たちが「むやみ、やたらに演奏している」ように聞こえたので、この名前がついたといわれています。
『教訓抄(きょうくんしょう)』(鎌倉時代に書かれた楽書)によると、中国の西域の人は好んで蛇を食べ、蛇を見つけて歓ぶありさまを舞にしたと言います。また『楽家録(がっかろく)』(江戸時代に書かれた楽書)によると、唐の明皇(めいこう)(玄宗)が兵を挙げて韋后を滅ぼして京師に還り、この曲を作り還城楽と名づけ、宗廟でこれを演奏すると霊魂が蛇となって現れ喜んだという説が書かれています。さらに別の説として、大国の法に王の行幸、還御のときにこの曲を奏するとも書かれています。
曲の順序は、笛の独奏「小乱声(こらんじょう)」にはじまり、打楽器だけが奏する「陵王乱序(りょうおうらんじょ)」で舞人が登場し、舞人に合わせて龍笛が伴奏します。舞人が舞台を一周すると蛇持(へびもち)が登場して、とぐろを巻いた蛇を舞台中央に置きます。舞人はこの蛇を見つけて、喜び飛び跳ねます。やがて、左手で蛇を取り上げ、このとき笛が吹止句(ふきどめく)を奏します。 還城楽音取(げんじょうらくねとり)という短い曲が奏され、続いて還城楽の当曲を演奏、舞われます。当曲が終わると蛇の首を落とすような所作があり、その後、打楽器と龍笛の奏する「安摩乱声(あまらんじょう)」で舞人は退出します。
装束は、この舞専用の毛べりの裲襠装束(りょうとうしょうぞく)を着けます。裲襠とは、一枚の布の中央に頭の入る穴をあけ、ここから着てこの装束が胸と背の両方に当たるので、この字にそれぞれ衣へんをつけて名づけられたと言われています。
あごが紐で吊られ、ほおが上下に動く還城楽の面をつけ、左手に桴を持ちます。

胡蝶(こちょう)

胡蝶

右方の舞楽。高麗壱越調。《胡蝶楽(こちょうらく)》とも。「胡蝶」とは昆虫の蝶のことで、その見た目の美しさからか、『源氏物語』の巻名に用いられたり、能や歌舞伎で同名の演目が作られるなど、古くから好まれてきた題材です。
延喜年間(九〇一―九二三)の初期、童相撲における舞楽のために藤原忠房(ふじわらのただふさ)によって作曲されました。一説には、楽才に優れた敦実親王(あつみしんのう)(宇多天皇(うだてんのう)第八皇子)によって舞が作られたとされます。古来この楽曲は子供が舞うもので、そもそも作曲が行なわれたきっかけも、相撲節会(すまいのせちえ)の童相撲御覧に際して宇多法皇による要請があったためのようです。
演奏は高麗笛による《高麗小乱声(こまこらんじょう)》の独奏から始まります。次に《高麗乱声(こまらんじょう)》の退吹(おめりぶき)(複数の笛奏者が一定の間隔をあけて同じフレーズを吹き重ねてゆく奏法)、高麗笛と篳篥各一管の《小音取(こねとり)》と続き、《胡蝶》当曲(とうきょく)に入ります。
舞人は背中に蝶の羽の作り物を着け、花の施された天冠をかぶり、山吹の花を手に持って舞います。装束の上下にはひらひらと舞う蝶の姿が刺繍されており、見た目にもたいへん楽しい舞です。
小曲 四拍子 拍子六

古鳥蘇(ことりそ)

古鳥蘇

嵯峨天皇の頃(八〇九~八二三)に高麗の笛師の下春がわが国に伝えたといわれています。古鳥蘇は穏やかな舞容の平舞(ひらまい)です。
この舞の正式なものは、当曲(とうきょく)舞が終わった後、一臈(いちろう)と二臈(にろう)以外は降台し、舞台に残った二人は後参桴を受け取り後参(ごさん)(一臈、二臈が残る舞の作法)を舞います。
四人の舞人の装束は、豪華に刺繍された襲装束(かさねしょうぞく)を用います。これは常の装束とも言われ、舞楽の代表的な装束です。通常は図のように頭には鳳凰を象った鳥甲(とりかぶと)を被るのですが、この舞では巻嬰(まきえい)の冠を被り、太刀をはきます。
正絹を紗に織った袍(ほう)も両肩をぬぎ、中に着ているチョッキのような半臂(はんぴ)の鳳凰・桐・竹などの刺繍がよくわかります。
袍、半臂の下には、桐と唐草、篠の地紋を白絹で織り出した綾織に菱形を紫色に染めた下襲(したがさね)を着ます。袍の両肩をぬいでいるため、この袖の模様もはっきりと見えます。
袴は足首のところでしばるようになっており、その上に膝の下から足首までを覆う、脚絆(きゃはん)のような踏掛(ふがけ)と呼ばれるものをつけます。
高麗楽、壱越調。
大曲 四拍子、拍子十四

狛桙(こまぼこ)

狛鉾とも書き、花釣楽、棹を持って舞うので棹持楽の名もあります。朝鮮半島からの船を五色に彩色された美しい棹であやつって港に入るありさまを舞にしたといわれています。
四人の舞人が平行に一列になって、棹を引いてこぐ舞のふりは、この舞の見どころの一つです。
舞人の着る装束は還城楽と同じく裲襠(りょうとう)装束ですが、毛べりではなく錦の縁のついたもので、両頬のところに老懸(おいかけ)がついた、巻纓(まきえい)の冠をかぶります。

胡飲酒破(こんじゅのは)

この曲は天平八(七三六)年に林邑(りんゆう)国(ベトナム)の僧、仏哲(ぶってつ)が我が国に伝えたと言われており、「林邑の八楽」の一つです。仁明(にんみよう)天皇(八〇〇年代)の時に改作されたとの説もあります。
管絃でも演奏され、舞とともに舞楽でも演奏されます。酔胡楽、宴飲楽、飲酒楽ともいわれ、胡国の王が酒を飲んで酔って舞った様を舞にしたものと言われています。「胡飲酒破」の「破」は「序・破・急」のことで胡飲酒には序と破の曲があります。
また本来この胡飲酒は唐楽の壱越調の曲ですが、渡し物として双調の曲もあります。

西王楽破(さいおうらくのは)

唐楽の黄鐘調の曲です。仁明天皇(在位八三三~八五〇)の頃、花の賀宴の際に天皇が曲を作り、犬上是成(いぬがみのこれなり)が舞を作ったといわれます。曲は序と破にわかれ、催馬楽の「葦垣(あしがき)」を序とし、「鷹山(たかのやま)」または「山城(やましろ)」を破としていたといいます。現在では舞は残っておらず、破のみ演奏されます。

三臺塩急(さんだいのきゅう)

唐楽 平調 急 中曲 早四拍子 拍子十六 「天寿楽(てんじゅらく)」ともいわれます。
この曲の起源は、唐の張文成という色を好む美男子が『遊仙窟』という恋愛小説を書いて則天武后(在位690~704)に献上したところ、とても喜んでその内容を曲にしたという説と、大唐楽で、三月の内宴の日に帝王と后妃が三臺(さんだい)でこの舞で会を始めたので三臺塩(さんだいえん)と呼ぶようになり、大宗の作との説もあります。
『仁智要録(じんちようろく)』によると仁明朝に犬上是成(いぬがみのこれなり)が唐より、序は秘により伝えられず、破、急だけを伝えたとあります。しかし、現在、舞は絶えてしまい急の曲のみが伝えられています。
『楽家録』によると通常は「塩」の読みを略すとあります。

敷手(しきて)

この舞は今の中国の東北地方にあった渤海国のもので新靺鞨、綾切などと共に伝えられたという説もあります。その昔、天子の元服には裏頭楽とともに演奏されたという、非常におめでたい曲です。
舞人は、平安時代の近衛の武人の正装であった蛮絵装束を着て四人で舞います。この蛮絵装束(ばんえしょうぞく)は向かい合った獅子の刺繍が袍の前、後ろ、袖に施されているのが特徴的です。頭には冠を被り緌(おいかけ)を付け、袍は銀帯(ぎんたい)で結び、笏を挿します。一番上に着る袍の色は、敷手が右舞ですので縹色(はなだいろ)です。左舞では袍の色は檜皮(ひわだ)色となります。
舞の中ほどで舞人が跪き、右肩の袖を脱ぎ立ち上がると、四人が輪になって舞台を時計回りに一周するところは見ていても楽しくなります。
右舞ですので、笙は演奏しません。笛は管絃や左舞で吹く龍笛ではなく、高麗笛を奏します。高麗笛は竜笛より細くて短く、指穴は六孔です。また打楽器のうち鞨鼓の代りに三鼓を右手の一本の桴だけで打ちます。

酒胡子(しゅこし・しゅこうし)

酔公子(すいこうし)、酒公子(しゅこうし)ともいい、唐の人がお酒を飲むときに奏された曲と言われています。古くは舞があったとも言われていますが、現在は伝えられておりません。
堀河天皇の頃(一○九○)に双調から壱越調に渡され(転調され)たとの説があり、現在では両調ともに演奏されます。
唐では酔公子といい、品玉(曲芸)の名で、また酒盛りの時に奏する曲であるともいわれています。酒胡子の詩があり、酒胡子は酒を勧めるときに用いる人形のことで、人形をゆらし、倒れた先の人が盃をあけることが詠まれているそうです。軽やかなフレーズを何回も繰り返す小曲です。

春庭花(しゅんでいか)

春庭花

左方の舞楽。双調。《春庭楽(しゅんでいらく)》の曲を二帖(楽曲全体のことを一帖といいます)、二回繰り返すものを《春庭花》と呼びます。この名称の使い分けは近世に入ってからの慣習で、本来明確に呼び分けられていたものではなかったようです 。
 この曲はもともと太食調でしたが、和迩部大田麿(わにべのおおたまろ)によって双調に渡されました。また、犬上是成(いぬがみのこれなり)によって舞が作られたとも伝わります 。そもそもの太食調の原曲は、延暦年間(七八二―八〇六)、遣唐使・久礼真蔵(くれのさねくら)(一説には貞茂)によってもたらされたといわれますので 、唐においても中期頃に作られた楽曲なのかもしれません。

舞人は袍の右袖を脱いだ片肩袒(かたかたぬ)ぎで蛮絵装束()蛮絵装束(向かい合う獅子が刺繍された装束)をまとい、太刀を佩(は)き、挿頭花(かざし)(花飾り)をあしらった冠(かんむり)を着けます。
 《春庭楽》中曲 延八拍子 拍子十 末二拍子加を二帖

春鶯囀(しゅんのうでん)

この曲の由来にはさまざまな説がありますが、一説に昔、夜明け方に鶯の鳴き声を聞いた唐の高宗(在位六四九~六八三)が、それをもとに楽人の白明達に命じて作らせたといいます。
また日本では仁明天皇の承和年間(八三四~八四八)に、舞の名手であった尾張浜主(おわりのはまぬし)が百十余歳の高齢でこの舞を舞ったという伝説があります。既に背が曲がり身動きも不自由な彼が、舞いだすとまるで少年のようであったため、「天長宝寿楽」等の別名を持ち、古来おめでたい曲とされています。
舞楽の際は、襲装束(かさねしょうぞく)の袍(ほう)の両肩を脱いで、刺繍の美しい半臂(はんぴ)と下襲(したがさね)の袖を翻しながら六人または四人の舞人が舞います。唐楽、壱越調。
大曲 早六拍子、拍子十六、半帖以下加。

青海波(せいがいは)

青海波

源氏物語の紅葉賀巻には「源氏の中将は青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将(とうのちゆうじよう)、容貌(かたち)用意人にはことなるを、立ち並びてはなほ花のかたはらの深山木(みやまぎ)なり」とあり、光源氏と頭中将がこの青海波を舞うシーンは読者にひときわきらびやかな印象を与える名場面です。
この曲は天竺(てんじく)にて婆羅門僧正がこれを聞いて伝えたといいます。日本には平調の曲として伝来し、仁明天皇(在位八三三~八五〇)の勅で盤渉調に改作、一説に、舞は良峯安世(よしみねのやすよ)、楽は和邇部太田麿(わにべのおおたまろ)、詠(えい)は小野篁(おののたかむら)の作ともいわれています。
舞人は二人。装束はこの舞にだけに使われる青海波の文様に百余匹の千鳥の姿を刺繍した袍(ほう)に半臂(はんぴ)、下襲(したがさね)、金帯(きんたい)、踏掛(ふがけ)、太刀(たち)などを着けます。舞楽装束の中で最も豪華絢爛なものといえます。唐楽、左方の舞。
 盤渉調 中曲 早八拍子 拍子十二 末四拍子加。

仙遊霞(せんゆうが)

「仙人河」「仙神歌」ともいい、舞はありません。太食調、呂、早八拍子、拍子十の曲。隋の煬帝(在位六○五~六一六)が、白明達に命じて作らせたといいます。
『源氏物語』「若菜下」の巻に、「今日は、かかる試みの日なれど、┈┈楽人三十人、今日は、白襲を着たる。┈┈ 辰巳のかたの釣殿につづきたる廊を、楽所にして、山の南のそばより、御前に出づるほど、仙遊霞というもの遊びて」とあります。三十人の楽人が、池の向うの築山(つきやま)の南より、演奏する場所である楽所に移動するときに奏したのが、この仙遊霞の曲でありました。『教訓抄』によると「斎宮が伊勢に下るときに瀬田橋で楽人が参向の時に奏する」とあり、これに掛けて水辺を楽人が移動するときに演奏したようです。「若菜下」では、この後舞楽・萬歳楽(まんざいらく)、皇麞(おうじょう)、陵王(りょうおう)、落蹲(らくそん)、太平楽(たいへいらく)、喜春楽(きしゅんらく)が舞われたと言われています。

蘇利古(そりこ)

蘇利古は、顔に雑面(ぞうめん)というとてもめずらしい特徴的な顔を和紙に描いたものを付け、白楚(ずばえ)を手に持ち、襲装束(かさねしょうぞく)を着けますが、甲(かぶと)ではなく冠をいただいて四人で舞います。
この蘇利古の曲と調子は、昔は秘曲とされており、替わりに狛桙(こまぼこ)か植破(はんなり)を演奏していたので、蘇利古の曲は早くに絶えてしまいました。いつの頃からか、まず意調子(いちょうし)を奏し、次に狛桙と言う曲の返付(かえしづけ)から演奏いたします。舞台上で当曲舞が舞い終わると楽が止まり、無音の中を舞人が退いていきます。
この曲の由来について、『大日本史』には「『古事記』に、応神(おうじん)天皇の御世(二七〇頃)に百済人(くだら)である須須許理(すすこり)が来朝して、酒を造って之を献じたことが書かれており、須須許理が進蘇利古(しんそりこ)と音が近いので、楽名は恐らくここに起こったのであろう。また古く朝鮮では酒を醸すには必ず先ず井戸と竈とを祭り、或はまた舞を奏したので、竈祭舞(かまどまつりのまい)とも呼ぶ」と書かれています。又 蘇利古とは、舞人が持っている桴(ばち) 白楚を「曽利古」とも書き、この持ち物から曲名が曽利古となったという説もあります。
なお、雑面を付ける舞は、蘇利古のほかに「安摩(あま)」の舞人と「胡徳楽(ことくらく)」の勧盃(けんぱい)が着面します。

長慶子(ちょうげいし)

舞楽会の最後にこの長慶子が演奏されるのが昔からの習わしになっています。今回もこの習わしに従って長慶子を演奏します。長慶子が太食調の曲ですので、太食調の音取を演奏し続いて長慶子を演奏します。
源博雅(九一八~九八〇)の作曲で、舞はありません。

長保楽破(ちょうぼうらくのは)

長保楽

一条天皇の長保年間(九九九~一〇〇四)に「保曽呂久世利(ほそろくせり)」の曲を破、「加利夜須(かりやす)」を急として二つの曲を合わせて一曲にし、年号をもって曲名にしたといわれています。今回のサブタイトルの源氏物語はこの長保年間に執筆されたといわれており、物語の中には「長保楽」の曲名は見えませんが、「保曽呂久世利」の名で登場しています。
舞人は唐獅子(からじし)のような動物二匹を向い合せに丸くデザインした文様の蛮絵装束(ばんえしようぞく)を着け、四人で舞います。高麗楽(高麗楽)、右方の舞。
高麗壱越調 中曲 四拍子 拍子八。

登殿楽(とうてんらく)

高麗楽(こまがく)、右方の四人舞。我が国で作られた曲といわれていますが、作者は不明、伝承の少ない曲です。昔は童舞(どうぶ)として子供が舞う舞でしたが、近年は大人が舞うことが多くなっています。
舞の途中で「天地の岐呂利(ぎろり)」という両手を天に向けて手首をひねる特徴のある舞の手があります。舞人は蛮絵装束(ばんえしようぞく)を着して舞います。 高麗双調、四拍子、拍子八の曲。

納曾利(なそり)

納曾利

別名「双竜の舞」とも言われ、龍を表す面は目は銀色で動くようになっており、あごは紐で吊り下げられ銀の牙があります。雌雄の龍が遊び戯れるさまを舞にしたと言われています。
この舞は、二人で舞うときを落蹲と言い、一人で舞うときを納曾利と言ったといわれますが、現在では逆で、二人で舞うものを納曾利と言っています。
曲は破と急の二つの部分から成っていて、二人が向かい合ってひざまづくと破は終わり、続いて唐拍子という変わったリズムで急が舞われます。

『源氏物語』の「蛍」「若菜上」「若菜下」に落蹲の名で登場します。

打球楽・落蹲など遊びて、勝負の乱声ども、ののしるも、夜に入りはてて、何事も見えずなりはてぬ。(蛍)
萬歳樂・皇など舞ひて、日暮れかかるほどに、高麗の乱声して、落蹲の舞ひいでたる程ぞ、猶、常の、目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひ果つる程に(若菜上)
今は源中納言の御子、皇。右のおほい殿の三郎君、陵王。大将殿の太郎、落蹲。さては、太平楽・喜春楽など舞どもをなむ、(若菜下)

仁和楽(にんならく)

光孝天皇(八八四~八八七)の命令によって、百済貞雄が高麗楽、右方の舞の形式によって作曲作舞した、純和製の曲です。作成時の仁和の年号をとって、仁和楽という曲名がつけられました。
この舞は高麗楽の形式によって、わが国で初めて作られた舞楽と言われています。
装束は、蛮絵装束で舞う場合もありますが、本日はさらに華やかな襲装束と呼ばれるもので舞います。一番下に下襲(したがさね)を着、その上半臂というチョッキのような袖のないものを着て、一番上に大きな袖の赤色の袍を着ます。袍の右袖をぬいでいるため(片肩袒(かたかたぬぎ)と言います)、下に着ている装束も見ることができます。
また、差貫という袴をはき、その裾を足首のところで紐で結び、踏懸(ふがけ)という脚絆(きゃはん)のようなものを脛のところに巻きます。足には糸鞋(しかい)という絹で編んで作った靴をはいて舞います。

音取(ねとり)

それぞれの調には、音取という その調の音階をたくみに取り入れ、演奏する曲の雰囲気を作り上げていくための短い前奏曲があります。
音取は、各楽器の第一奏者(音頭(おんど))が、笙、篳篥、竜笛、鞨鼓、琵琶、箏の順に短い楽句を独奏します。

陪臚(ばいろ)

陪臚

四人の舞人が楯と鉾を持って舞台に登り、太刀を抜いて舞う大変勇ましい舞です。
唐楽で笙も入っての演奏となりますが、右方の舞となっています。
天平八(七三六)年に婆羅門僧正と南ベトナムの僧、仏哲が伝えた「林邑(りんゆう)の八楽(はちがく)」の一つです。
平調調子で舞人が登台し、向かい合わせになり楯と鉾を置いた後、破(平調の陪臚の曲)が奏されます。この曲の途中から太刀を抜いて舞います。破が終わると楯を置き太刀を納め、沙陀調音取の短い曲が奏されます。その後、急(新羅陵王急)が始まり、その曲の途中で鉾と楯を持って舞います。最後は入綾で舞台を下ります。
装束は、裲襠装束(りょうとうしょうぞく)です。裲襠とは、一枚の布の中央に頭の入る穴をあけ、着るとこの布が胸と背中の両方に当たるので、この字にそれぞれ衣へんをつけて裲襠と名付けられたそうです。袍の上にこの裲襠を着るところから、裲襠装束と呼ばれています。
頭には冠の額の部分を赤く塗った巻向(まっこう)冠を被り緌(おいかけ)を付けます。袍は蛮絵装束のものとは異なり、袖が小さく手首のところで結ぶようになっています。その上に金襴べりの裲襠を着け、帯で結びます。袴も指貫という、袴の裾を足首で結ぶものを用います。

抜頭(ばとう)

抜頭

この曲は、中国地方の地で、父を猛獣に噛み殺された息子がその仇を討ち、喜んで山道をかけおりてくるありさまを舞いにしたという説と、唐の后が嫉妬して鬼となった形の舞であるという二つの説があります。顔をかきむしるような舞ぶりは、抜頭の舞の特徴です。『枕草子』の「舞は」にも「抜頭は髪振り上げたるまみなどは、うとましけれど、楽もなほいとおもしろし。」と記されています。
抜頭はリズムの異なる舞いかたで二種類の舞があります。只拍子(ただびょうし)(二拍子・四拍子の繰り返し)で舞うのを左方の舞といい、八多良拍子(やたらびょうし)(二拍子・三拍子の繰り返し)で舞うのを右方の舞といいます。
装束は、裲襠装束(りょうとうしょうぞく)です。裲襠とは、一枚の布の中央に頭の入る穴をあけ、着るとこの布が胸と背中の両方に当たるので、この字にそれぞれ衣へんをつけて裲襠と名付けられたそうです。袍の上にこの裲襠を着るところから、裲襠装束と呼ばれています。
管絃で演奏するときは、早只四拍子(はやただよひょうし)、拍子十五です。鞨鼓の打ち方が、抜頭は古楽ですので右手だけで打ちます。

白浜(ほうひん)

白浜

「白浜」は昔の朝鮮半島の地名と言われています。四人の舞人が蛮絵装束(ばんえしょうぞく)の袍(ほう)の袖を優雅に翻しながら舞います。途中、向かい合わせに跪(ひざまず)き、袍の右肩をぬぎます。その後、四人は丸く向き合いながら、波が寄せては引くように円を大きくしたり小さくしたりしながら舞います。

萬歳楽(まんざいらく)

萬歳楽

この曲は、唐の則天武后(六九〇~七〇四)が、飼っていた鸚鵡がいつも萬歳と鳴くので、その鳴き声をとって作曲したという説と、隋の煬帝(六〇五~六一六)の作曲で、鳳凰が飛んできて賢王万歳と囀るその声を楽に、その姿を舞にしたという説があります。
現在は天皇の即位の礼の際に、太平楽とともに必ず奏されるおめでたい舞です。
『源氏物語』では「若菜上」で源氏の四十の賀に「舞台の左右に、楽人の平張うちて┈┈ 未の時ばかりに、楽人まいる。萬歳樂・皇など舞ひて、日暮れかかるほどに、高麗の乱聲して、落蹲の舞ひいでたる程ぞ」と萬歳樂、皇、落蹲、入綾を舞う様子が描かれ、「若菜下」で朱雀院の五十の賀で、仙遊霞の後に萬歳樂が舞われています。
萬歳楽の舞楽は大きく三つに分かれています。まず笙が平調の調子を少しずつ遅れて退吹で順番に吹き始め、しばらくすると篳篥が平調の調子をこれもまた退吹で吹き始めます。途中で笛が平調の音取を吹きます。笛の音取が終わると笛は品玄という曲を、篳篥は調子の二句、三句を吹き始めます。笙は始めから連続して吹き続けています。ここから舞人が一人ずつ舞台中央で出手という、登場するときの短い舞を舞い登台します。四人の舞人が位置につくと、鞨鼓の合図で曲が止まります。
そして、萬歳楽の当曲が始まります。この曲は拍子二十、とあるのですが、譜面は拍子十一までしか残されておりません。舞は、笛の音頭が吹き始めるとほぼ同時に舞い始め、拍子十までを舞い、志止祢拍子(しとねびょうし)と呼ばれる譜面には記されていない太鼓を最後に一つ打ちます。
当曲を舞い終わると直ちに笙・篳篥は調子を、笛は臨調子をほぼ同時に吹き始めます。これを聞いて舞人は、退出の舞いである入手を四人揃って舞い順次退出します。
装束は、常の装束とも襲装束とも呼ばれ、ふんだんに刺繍が施された華麗な装束です。頭には鳳凰を象った鳥甲を被り、裾を長く引きずるように赤色の袍の右肩を脱いで着、脱いだ右肩からは、鳳凰、桐、竹などが刺繍されている半臂が見えます。足は絹の組みひもで出来た糸鞋を履き、袴は白の綾織で瓜の紋の刺繍があります。

落蹲(らくそん)

落蹲

現在はこの舞を二人で舞う時は「納曽利」、一人で舞う時を「落蹲」と呼びますが、源氏物語などの平安時代の書物には一人で舞うものを「納曽利」と表しています。別名を「双竜の舞」とも言い、舞人の付ける面は龍をあらわし、目は銀色で動くようになっており、あごは紐でつり下げられ銀の牙があります。雌雄の龍が遊び戯れるさまを舞にしたといわれており、大変リズミカルな舞です。曲は破と急の二つの部分に分かれています。

蘭陵王(らんりょうおう)

蘭陵王

中国の南北朝末期の北斉(五五〇年頃)の蘭陵王長恭が金庸城で周の大軍を打ち破った史実を基に作られたと言われています。長恭は才知武勇にして美貌の持ち主で、戦の際は、味方の兵が見入ってしまって士気が上がらないのを防ぐために獰猛な仮面をかぶって指揮を執ったと伝えられています。舞人は首をもたげた竜をほどこした金色の面を付け、右手には金の桴、毛縁の裲襠装束(りょうとうしょうぞく)を身着け勇壮華麗に舞います。舞人一人の走り舞です。この曲も「林邑の八楽」の一つです。唐楽、壱越調。
中曲 早八拍子、拍子十六 半帖以下加

陵王(りょうおう)

舞楽曲の中で有名な「蘭陵王(らんりょうおう)」を管絃として双調に渡した(転調した)曲です。
洋楽の場合、転調してもメロディーに変化がないので二つの曲に大きな相違は感じられませんが、雅楽の場合は各調子の音階の違いや、雅楽器の音域が狭いこともあり、平行移動的な転調ができないため全く違うメロディーになってしまいます。
唐楽、双調。
中曲 早八拍子、拍子十六 半帖以下加

林歌(りんが)

舞人の装束は別様装束(べつよしょうぞく)というこの林歌にのみ使用する特別なもので、ねずみが三十匹余り描かれている身丈も袖丈も短い袍を用います。また、頭には大きいけれど薄い甲をかぶります。『楽家録』には「林歌の曲ははじめ、甲子(きのえね)の日に奏されたので、その後これを甲子の曲とした」と記してあります。甲子は十干十二支の一番最初を意味し、また、十二支の「子」は「子丑寅卯」のことで「ねずみ」を指します。装束の袍にねずみが描かれているのはこのためでしょう。

輪鼓褌脱(りんここだつ)

唐楽、太食調の曲。中国古代の芸能で、雅楽に対して民間の舞を意味する散楽の一つであったろうといわれています。平安時代中期の学者・歌人の源順の説によれば、その中の雑芸に輪鼓をもてあそぶものがあるので、この曲は唐の輪鼓の舞の種類の褌脱という曲名のものだろうといいます。古くは舞があったようですが、今は絶えてしまいました。また、鎌倉時代の『教訓抄(きようくんしよう)』には、催馬楽(さいばら)の「安波戸」という歌に合っているとありますが、この歌は絶えてしまっています。
早只四拍子、拍子二十三、末八拍子加の曲。

林邑八楽(りんゆうはちがく)

奈良時代に林邑(りんゆう)国(ベトナム)の僧、仏哲(ぶってつ)と天竺(インド)の僧、婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)が我が国に伝えたと言われる、安摩、迦陵頻、胡飲酒、陪臚、抜頭、万秋楽、蘭陵王、菩薩の八曲のこと。